フェチシズムとか偏愛とか

自分のフェチってなんなんだろうっていうのが、最近のぼくの考えごとです。
(フェチ、あるいは偏愛。ここでは「ものすごく好きなもの」ぐらいの意味。)

以前からぼくを知る人なら、ぼくが「ふとももフェチ」であることはご存知かと思います。

Twitterでは日夜、ふとももをRTしておりますし、浅草橋のギャラリーで行われた「ふともも写真の世界展」にもお邪魔して、たっぷりとふとももを堪能させていただきました(視覚的に。

ただここで、「じゃあなんでふとももが好きなのか」っていう部分に一歩進んでみたいなと思うんですよね。

なぜなら、ふとももをふとももとして好きかと言われると、実はそうではないからです。

つまり、自分の中には「好きなふともも」と「あまり好きではないふともも」が存在しているということです。

そうである限りにおいて「ふともも」は、自分の好きな”何か”を他のものよりも上手く表現しているに過ぎないのではないかと。

自分のフェチシズムは「ふともも」そのものではなく、「ふともも」が含む”何か”なのではないかと。

そう思ったんですね。

じゃあ何かってなに? と聞かれると、正直まだわかっていないというのが答えになります。

ただそれなりに考えてきたことですし、一応仮説はあります。

それは「美しさと手触り感」に関係するのではないか、というもの。

ふともも写真の中で、ぼくが最も好きなのは「光を反射しているふともも」なんですね。

光を反射するのって(乱暴な言い方ですが)美しいじゃないですか。表面が滑らかで、くすみがないからこそ反射が起きるわけで。「陶磁器のような」という表現もありますが、無機質な、冷たさも感じさせる美しさです。

その一方でふとももっていうものは、もちもちした柔らかいものです。触れればきっと暖かいし、押すと弾力を感じさせる。誰しもがその感触を知っているはずで、写真や絵からでも、容易にその「触り心地」は想像ができるでしょう。

このギャップ感。

美しいながらも柔らかな、暖かな感触をたたえた存在。

それが、ふとももに惹きつけられる理由なのではないかと。

まだまだ反例がありそうなのでこれで確定ではないですが、暫定こんな感じ。

さて、ここで終わってしまうとぼくは、ただ衆目に「自分がいかにふとももが好きか」をアピールしただけになってしまうので(それはそれでいいけど)もう一歩書きます。

上に書いたようなことを、実はふとももだけではない、他の「自分が妙に好きだなと思うこと / もの」に対しても、考えているんですね。そしてなるべく言語化して、他人に話すなり文章に起こすなりしてアウトプットするようにしています。

これはなぜかといえば「自分の感覚を正確に掴む」ためです。

自分がいいなと思ったことやものを言葉にして蓄積していくことで、自分の好きがよりはっきりとした輪郭を表す気がしているんです。

最近、自分の好きなものに自覚的な人って素敵だなって思うんですよ。

それがどれだけ世間ずれしていたとしても、理解できないと排斥されても、それでも魅力を語れる何かがあるってとても素敵なことじゃないですか。

ぼくにはあまりそういうものがなかったし、あまり言ってこなかったところもあります。

だから少しずつでも、好きなものを意識的に集めたり、表に出したりしていきたいんですよね。

ではではっ!

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